寺田物理学の形成と展開の過程    隅蔵 康一
 

寺田物理学のユニークさ

 寺田寅彦(1878-1935)の科学者としての歩みは、第五高等学校での田丸卓郎(1872-1931)との 出会いに端を発する。それ以来、寺田はその一生を通じて、「寺田物理学」とでもいうべき独自の スタイルで科学とかかわった。寺田物理学のユニークさは、分野の壁を超えた守備範囲の広さ、な らびに研究題材の選び方において特に顕著である。

 寺田の研究は、たいへん広範な領域で展開されていた。弟子の湯本清比古は、次のように述 べている。
「先生には専門の部門はなかった。強いて言えば物理学全般が先生の専門であったと見るべき だろう。最近数年来は化学の領域にまでも研究を拡められ、有機化学や膠質化学の勉強ぶりは還暦の 年に近い先生とは思われなかった。先生の机の周りには生理学の書籍もあれば鉱物学の本もあり、動 物発生学もあれば心理学もあり、あるいは生理植物学の本もあり、そして語学に堪能であられた先生 は瞬く間にこれらの専門の書籍を見て、その内容の要点を把んで居られた。」(注1
 一方、寺田と同時代の日本の科学者の大部分は、狭い学問分野の中で業績をあげて国際的に 認知されることを至上の価値としており、専門外の領域にまで関心の対象を広げるものはまれであ ったため、分野間の壁がたいへん堅牢に存在していた(注2)。寺田は、そ うした科学者たちからはやや距離を置き、専門分化の現状をさめた目で観察していた。そのことは、 彼が藤岡由夫にあてた書簡の中の次のような一節からうかがえる。
「この間、植物学者に会ったとき、椿の花が仰向きに落ちるわけを、誰か研究した人があるか、 と聞いてみたが、多分ないだろうということであった。花が木にくっついている間は植物学の問題に なるが、木を離れた瞬間から以後の事項は問題にならぬそうである。
 学問というものはどうも窮屈なものである。」(1931年2月14日付)
 このような「窮屈」な状況に屈することなく、既存の学問分野の枠を超えて幅広い研究活動を 展開した寺田は、まさしく「学際」を生きた科学者であったと言えるだろう。

 寺田物理学と言えば、研究対象もまた独特である。寺田は、それまで物理的な研究の対象とされて いなかった日常身辺の現象に注目し、研究題材とするのが得意であった。
 例えば、上の引用文中の椿の花の落ち方への関心は、落ちた椿の花の観察と統計処理、さらには モデル実験にまで発展し、英語論文にまとめられて1933年に理化学研究所論文集に収録された (注3)。この他にも、寺田の研究テーマのリストの中には、墨流し、割れ目 のでき方、タンポポの実が空中を浮遊する機巧、金平糖の角のでき方など、日常なじみ深い現象から 題材をとったものを数多く見ることができる。
 学術論文のみにとどまらず、寺田の遺した多くの随筆作品の中にも、日常の現象を科学の目で 捉えなおして平易に説明しているものがある。例えば「電車の混雑について」では、簡単な数理と観 察により、「来かかった最初の電車に乗る人は、すいた車に会う機会よりも込んだのに乗る機会の方 がかなりに多い。」という結論を導いている。
 こうした現象は、なぜ他の物理学者たちには研究対象として取り上げられなかったのだろうか。 石原純(1881-1947)は、その理由を次のように述べている。
「概括して言うならば、すべてこれらの問題はふつうの物理学者には取り上げられそうに見えな いものである。それは考察するのにあまりにも複雑多様な事実に属するからである。従ってそれらは少 なくとも現在では精密な数学解析を応用して分析することは不可能である。それにもかかわらずこれを 適当に分析してそのあいだに何らかの一般的関係を見いだして行こうというのが寺田物理学の特質なの である。」(注4
 寺田の研究題材のユニークさを語るには、もう一点、寺田が日本特有の事象を好んで研究に取り 入れたことも指摘しておかねばならない。上に述べたものの中では、墨流しや金平糖がそれにあたる。彼 には、「物理学も西洋人のまねをすることはない。日本人に具合のいい物理学があるはずだ。」 (注5)という精神があったのである。一方、西欧近代科学の枠組みに忠実に従う のみであった当時の他の科学者たちにとっては、日本的な事象を研究に組み込むなど、まったく思いも寄 らぬことであった。
 このように、寺田は、それまで「非学問」の側にあったものを「学問」の領域にまで引きずり込ん でしまった科学者でもあったのだ。

 このように、寺田物理学は、既成の「物理学」の枠に収まりきらぬ特徴を持ったものであったが、 ここで単に「関心の幅の広い科学者」、「目の付け所がユニークな科学者」、として片づけるだけでは、 彼に対する理解は皮相的なものに終わってしまうだろう。
 そこで本稿では、まずはじめに、寺田物理学の形成と展開の過程をたどる。寺田は、研究題目の それぞれとどのように出会い、研究を進めていったのか。これを整理することにより、多種多様な内容を 含む寺田物理学の全体像が見えてくるであろう。それにつづいて本稿では、寺田の随筆を参照しつつ、 寺田物理学の独自性の根底にある思想に迫ってみたいと思う。寺田寅彦の科学観は、没後60年あまりを 経た現代の我々にとっても、示唆に富むものであるに違いない。
 

寺田物理学の3つのフェイズ

 ここで、寺田物理学の形成と展開の過程を捉えやすくするために、寺田の科学者としての人生を 3つの時期に区分し、花を愛でた寺田にちなんで、それぞれ「つぼみ期」、「開花期」、「結実期」と 名付けることにしよう。
 まずはじめは、第五高等学校にはじまり、大学・大学院・博士号取得を経て、ヨーロッパ留学に 旅立ち帰国するまでの、1896年から1911年までである。この時期に寺田は物理学の基本を学び研究者 としての訓練を受けるとともに、将来の研究を方向付けるいくつかの出会いを経験する。これが「つ ぼみ期」である。
 次は、帰国後に助教授として物理学の講座を担当するようになってから、1919年より約2年間 の病気療養を経て大学に復帰するまでの、1911年から1921年までである。この間、寺田は1915年に東京 帝大の教授に昇任する。X線回折に関する寺田の2報の論文が立て続けに学術誌「ネイチャー」に発表 されたのもこの時期である。これが「開花期」である。
 最後は、1921年に大学に復帰してから、1935年に没するまでの晩年の時期である。この時期に、 寺田は、数多くの弟子を指導しながら、それまでに熟成させた研究のアイデアを次々と実行に移すこと になる。1926年までに航研・理研・地震研の3つの拠点が定まり、1927年には、東京帝大理学部の講座 を解除して研究に専念することが許された。以後、三拠点のそれぞれから多種多様な研究成果が発表さ れ、寺田物理学が完成した。この晩年が、「結実期」である。
 この区分の中で、博士号取得とそれにつづくヨーロッパ留学までを「つぼみ期」すなわち科学者 としての準備・訓練の段階と定義し、一人前の大学教官として講座を担当したそれ以後の時期と区別し たことには、おそらく異論はないだろう。一方、病気療養の直後を「結実期」の始まりとしたのは、一 番弟子である中谷宇吉郎(1900-1962)の次のような言葉が手がかりとなっている。
「その頃は丁度『薮柑子集』や『冬彦集』が初めて世に出た時代で、先生の頭の中に永らく蓄積さ れていたものが、急にはけ口を得て迸り出始めたような感じを周囲に与えておられた。研究の方も同様 であって、三年間かの病床及び療養の間に先生の頭の中で醗酵した色々の創意が、生のままの姿でいく らでも後から後からとわれわれの前に並べられた。それらの創意は、皆その後の数年の間に立派に育て 上げられて、後年の先生の華々しい研究生活の一翼をそれぞれなすようになった。」(「寺田先生の追憶」)
 こうして、寺田の科学者としての歩みにおける3つの段階、つぼみ期・開花期・結実期がそれ ぞれ定義された。それでは、時系列に沿って、寺田物理学の歩みを見てゆこう。
 

つぼみ期

 (a) 第五高等学校時代 −田丸卓郎との出会いで物理学を志す−

 寺田寅彦は、1878年11月28日に東京で生まれた。寅年寅の日の生まれなので、「寅彦」 と名付けられたという。父の利正は高知県士族で、当時陸軍で仕事をしていたが(注6)、 父の転任や退役により、家族の居住地はその後高知、東京、高知と移り変わった。寺田は1891年に 高知県立尋常中学校を受験し、このときはなぜか失敗してしまうが翌年は合格を果たし、入試成績 抜群のため一級飛び越して2年に入学した。1896年に高知県立第一中学校を首席で卒業し、卒業成 績優秀のため第五高等学校(熊本)に無試験で入学を許可された。
 第五高等学校に入学した当初、寺田は父の薦めにより工科の造船学を志望していた。しかし 製図にさっぱり興味が持てず、自分の針路を考えあぐねていた。そんなときに出会ったのが、6歳 年上の教授、田丸卓郎であった。田丸に学んだ物理学が、寺田の将来を決定づけた。
「・・・また一方では田丸先生の物理の講義を聞き、実験を見せられたりしていると、どうし ても性に合わぬ造船などよりも、物理の他に自分のやる学問はないという気がしてきた。それでとう とう田丸先生に相談を持ちかけたところが、先生も、それなら物理をやった方がよかろうと賛成の 意を表してくださった。少なくとも、そういうふうにその時の先生の話を了解したので、急に優勢 な援兵を得たように勇気を増して、夏休みに帰省したときにとうとう父を説き伏せ、そうして三年 生になると同時に理科に鞍がえをしたのである。」(「田丸先生の追憶」)
 高等学校で田丸に教わった物理は、寺田の針路決定に寄与しただけではない。寺田が生涯、 既成の物理学の枠にとらわれない独自の物理学を追究したことは、前述のとおりであるが、その独 創性のルーツの一つが田丸の物理講義であったことが、次の記述からうかがえる。
「高等学校における田丸先生の物理も実に理想的の名講義であったと思う。後に理科大学物 理学科の課目として教わったものが『物理学』だとすると、その基礎になるべき『物理そのもの』 とでもいったようなものを、高等学校在学中に田丸先生からみっしり教わったというような気がす る。この時に教わったものが、今日に至るまで実に頭にしみ込み実によく役立ち、そうしていつも 自分の中で生きてはたらいているのを感ずる。」(「田丸先生の追憶」)
 田丸はこの後、1900年に東京帝国大学理科大学助教授となり、1907年には教授となる。田 丸は大学においても寺田の良き先輩となるのである。その後の田丸と寺田の経歴を見ると、ローマ 字運動・航空学調査委員会・航空研究所・飛行船に関する調査・航空用語調査委員会という具合に、 数々の場面で二人は歩みをともにしている。これは、田丸が自分の関与する仕事に寺田を誘ったた めではないかと想像される。その上、二人の親しさは仕事上のみにとどまらなかった。1920年に寺 田が大学辞職を考えたときに真っ先に相談したのは田丸であり、二人は私的にも親交が厚かったと 思われる。また田丸は洋楽愛好家であり、この点でも寺田に大きな影響を与えた。
「とにかく自分がこの楽器(ヴァイオリン)をいじるようになったそもそもの動機は田丸先生 に(試験に失敗した友人の)『点をもらい』に行った日に発生したのである。」(「田丸先生の追憶」 ;括弧内は筆者注)
 さて、この時期に寺田の将来に大きな影響を与えた人物がもう一人いる。その人物とは、 夏目漱石(1867-1916)である。漱石との出会いが寺田を文芸へといざなったのは疑いの余地がない が、漱石の影響は文芸の領域のみにはとどまらないだろう。
「先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、 自然の美しさを自分自身の目で発見することを教わった。」(「夏目漱石先生の追憶」)
 漱石との出会いは、寺田物理学のもう一つのルーツでもあったのである。
 こうして、田丸と漱石との出会いが寺田の人生の針路を大きく左右したのだが、彼ら三人の 年譜をたどってみると、一つの奇妙な偶然に行き当たる。1896年9月の寺田の入学と前後して、そ の年の4月に漱石が講師として、また8月に田丸が教授として第五高等学校に赴任しているのである。 何者かが3つの知性をここに集わせたのだろうか、と思わせるほどの出来事である。もしこの時に彼 らと出会わなかったとしたら、寺田の知のあり方は別の形をとっていたかもしれない。

 (b) 物理学科の学生時代 −田中舘愛橘・山川健次郎らに学ぶ−

 寺田は1899年7月に第五高等学校を卒業し、その年の9月に東京帝国大学理科大学物理学科 に入学する(注7)。寺田はここで、確立された学問体系としての「物理学」 に接することとなるのである。当時の物理学科には、田中舘愛橘(1856-1952)、山川健次郎(1854- 1931)らが教官として名を連ねていた。田中舘や山川は、外国人教師から直接の指導を受けて日本の 近代科学の草創期を担った人々であるから、彼らに教えを受けた寺田らは、日本近代科学の第二世代 ということになるだろう。
 田中舘は、本誌で酒井正子氏や山上隆志氏が紹介しているように、わが国の地球物理学や航空 学を先導し、航研の設立に深く関わると同時に、メートル法の普及やローマ字運動にも活躍した科学者 である。寺田が田中舘から学んだのは教科書に書いてあるような知見だけではなく、実験上のちょっと した秘訣もかなり伝授されたようだ。寺田はのちに学生に対して、「これは田中舘先生の直伝だが」と 前置きして、「螺子(ネジのこと)は摩擦と弾性とで役をしているものだからその締める手加減が大事 である」(括弧内は筆者注)といった秘伝を洩らすことがしばしばであったという (注8)。
 寺田の大学卒業後も、田中舘との学問上の交流はとぎれることがなかった。田中舘は1887年以来 長年にわたって地磁気観測を手がけたが、寺田もその一部を手伝ったことがある。寺田は1917年に、地 磁気脈動(注9)に関する研究を、田中舘の教授在職25周年を記念した論文とし て発表している。
 山川は、日本で最初の理学博士号を授与された5人の学者のうちの一人である。彼は日本で最初 のX線実験者であると同時に、魔鏡(注10)の研究でも知られている。また、 1910年頃に、当時世間をにぎわせていた「千里眼」とよばれる透視能力について中立な立場から調査に 乗り出したことでも有名である(注11)。山川はこのほか、科学行政家として も名高い。例えば、帝大航空研究所の設立は、総長の山川が航空学調査委員会の設立を命じたことに端 を発している。(注12)。
 寺田がのちに述懐したところによると、山川は厳格な教官だったが、一方で学生が実験中に当時の 日本にはいくつもないような貴重な器具をうっかり壊してしまった場合など、学生を戒めるでもなく悠然 と構えていた。寺田はそうした態度に感銘を受けたそうである(注13)。

 (c) 大学卒業から留学まで −長岡半太郎・本多光太郎・大河内正敏との交流−

 寺田は1903年7月に大学を卒業し、大学院に進学した。こうして彼の研究者としての人生が始まる のだが、この時期に寺田に大きな影響を与えたのが、長岡半太郎(1865-1950)、本多光太郎(1870-1954) という二人の先輩物理学者である。
 長岡半太郎は、磁歪(注14)についての研究で知られる。すでに1900年に はパリで開かれた史上最初の物理学国際会議に出席し、磁歪に関する招待講演を行っている。また1904年 には、彼の名を冠して呼ばれる原子モデルを提出することになる。寺田が長岡とのつながりを深めたのも ちょうどその頃である(注15)。一方の本多光太郎は、寺田の大学院進学当時は長 岡半太郎の下で講師を務めていた。本多はこののち1916年に、当時世界最強の永久磁石であったKS綱を 高木弘とともに発見し、磁性材料開発史に大きな一歩を記した。
 大学卒業後の寺田は、震災予防調査会の委員をしていた長岡から、本多光太郎を手伝って数々の調 査を行うよう命じられた。寺田の研究の歩みはこうして始まったのである。寺田と本多は一緒に各地へ足 を運び、静振(注16)の観測や間欠泉の調査を行った。そのかたわら、寺田は本多 の磁歪の研究を手伝って、磁場の有無によるニッケル線の弾性の違いの測定を行ったりもしている。当時の 日本の科学界は、外国で学んだ技術を利用してルーティンワーク的な観測を行うという段階から、世界の 一線の研究に肩を並べる成果を生みだす段階へと至る過渡期にあったと考えられ(注17)、 寺田はそうした環境の中で研究のなんたるかを体得していったのである。
 寺田がこの時期に交流した人物として、もう一人、大河内正敏(1878-1952)を忘れるわけにはいか ない。大河内は工学部造兵学科に所属していたが、共通の友人を介して寺田と知り合い、同じ年齢だったこ ともあって親しくなった。彼らは一部の実験機器を共同で利用し、弾丸が飛行する様子をシュリーレン法 (注18)で写真撮影した。その後の大河内は、1919年に42歳の若さで理化学研究所の 第3代所長に就任し、主任研究員制度の導入、理研コンツェルンの形成などに独自の手腕を発揮した (注19)。
 こうして、長岡・本多・大河内らとの交流の中、寺田は人生の歩みを着実に進めていった。1904年に、 東京帝国大学理科大学講師となる。1908年には、尺八にかんする音響学的な研究を学位論文としてまとめ、 理学博士を授与される。この学位論文の謝辞には、田中舘と長岡の名があった。翌1909年に助教授に昇任し、 まもなく地球物理学を学ぶことを目的としてヨーロッパ留学へと旅立つ。1909年3月から1911年6月まで 2年間の留学中は、ベルリン大学でプランクの一般物理学、ヘルマンの気象学などを聴講するとともに、 ヨーロッパ各国の大学や研究所を訪問した。

 (d) その後の展開への足がかり

 「つぼみ期」を寺田物理学の全体像の中に位置づける際には、まず第一に、この時期の人的交流により、 のちの研究の方向付けがなされたことが注目されねばならない。
 五高時代、田丸から教わった「物理そのもの」と漱石から学んだ「自然の美しさの発見のしかた」は、 晩年まで寺田物理学の根底を流れるものとなった。
 そののち大学で「物理学」の世界に足を踏み入れたわけであるが、ここでの田中舘や山川との交流は、 寺田を航空学へと誘い、航研への参画につながった。
 長岡に師事し、本多とともに行った静振や間欠泉の調査は、寺田が地球物理学に足を踏み入れるきっか けとなり、地震研設立への関与にもつながる。なお寺田の地球物理学に関しては、田中舘の存在や海外留学の 影響も大きいだろう。
 また寺田は1924年から理化学研究所に加わったが、これはその時すでに理研所長となっていた大河内に すすめられたためである。
 寺田の晩年の研究は、航研・理研・地震研の三極を拠点として行われることになるが、この時すでにそ の三極が形成される下地が準備されていたのである。

 もう一つ注目すべきなのは、寺田のこの時期の研究活動の中に、のちの彼独特の関心の持ち方の萌芽が見 られることである。
 例えば、学位論文の題材として尺八を選んだという事実は、研究題材として日本特有の事象を好んだ晩年の 姿勢を予感させる。また、寺田は随筆「自然界の縞模様」の中で、温泉の噴出口の周囲に生じる「噴泉塔」と呼ば れる曲線的円錐体と熱対流の関係について述べているが、これなどは、本多とともにおこなった調査旅行の経験が 下敷きとなっている可能性が高い。
 あとで述べるように、寺田は晩年に理研で錯視の研究を行ったが、実は寺田は大学卒業直後の3〜4年間にも 錯視の研究を手がけており、このことも注目に値する。例えば、寺田はこの時期に、「粉を水面に散布しこれに空気 のジェットを斜めに吹き付けてやると、粉は表面の水とともに流れて美しい縞模様を描く。瞳を粉から急にそのテ ーブルの上に落とすと、今度はテーブルの面が粉とは反対の向きに走るように見える」という現象を発見し、これ に関する記事が「ネイチャー」誌上に掲載された(注20)。ほぼ同時期に、寺田の手によ るこのほか3つの錯視研究が「ネイチャー」で取り上げられている。

 このように、寺田にとって博士号取得までの時期は、多くの研究者にとってそうであるように、晩年の研究 のあり方を方向付けるきわめて重要な期間だったのである。
 

開花期

 (a) X線回折の研究

 ヨーロッパから帰国後の寺田は、物理学第三講座の担任となり、地球物理学や海洋学の講義をおこなった。 1913年には最初の専門書である「Umi no Buturigaku」が出版された。
 講義を担当する中、寺田は自らの研究も着実に進め、研究成果を花開かせた。代表的なものが、1913年に 「ネイチャー」に2報の論文を発表することになる、X線回折の研究である。
 それまでのラウエの研究により、結晶構造を持ったものにX線を入射させると斑点(ラウエ斑点)が観察 されることが知られていた。ラウエはその斑点を写真に撮って解析していたが、寺田は、蛍光板を使ってラウエ 斑点を直接肉眼で観察する方法を考案した。これにより、結晶構造を持つ試料を回転させて斑点の変化を連続的 に観察することができるようになった。1913年4月10日付の「ネイチャー」に掲載された寺田の一報目の論文に は、この装置の説明が書かれている。それに加えて、「雲母の場合、斑点はあたかも入射X線が面で反射された かのような位置に来るが、その像から大きく離れた位置にも斑点ができるので反射と言ってよいかは疑問である。 更なる実験が進行中である」と記されている。しかし、実はこれより3カ月ほど前の「ネイチャー」でイギリスの ブラッグ父子がほとんど同じ内容の研究を発表しており、寺田は第一報の投稿後にそのことを知った。のちの1915年 に、ブラッグ父子はこの研究でノーベル賞を受賞している。
 当時、ヨーロッパから日本に郵便物が届くのには数カ月かかり、日本の科学者は情報のハンディキャップを 負っていた。また、寺田のまわりには実験に使えるX線発生装置がなかったため、医学部で捨てられていたものを 修理してから使わねばならなかった。
「もしわが国の地理的不利や研究設備の相違がなかったならばこの栄冠(ノーベル賞)は寺田先生が得られた のではないかと思われて残念でならない。」(注21;括弧内は筆者中) とは、のちに寺田の X線回折の研究を引き継ぐことになる西川正治の言葉である。
 一方、寺田本人は、ブラッグ父子に先を越されたことをどのように感じていたのだろうか。同年5月1日付の 「ネイチャー」に掲載された二報目の論文には、
「分子あるいは原子を多く含む面がX線の反射面となるというBarklaとBraggの説明を、蛍光板による観察 は支持している」
 と書かれており、寺田は自らの優先性をまったく主張しなかった。そればかりか、
「また最近にラウエやブラグの研究によってはじめて明らかになった結晶体分子構造のごときものに対しても、 多くの人は一種の『美』に酔わされぬわけに行かぬことと思う」(「科学者と芸術家」)
 と、随筆の中で賞賛すらしている。
 寺田物理学が既成の西欧近代科学の枠に収まりきらないものであったことは前に述べたとおりであるが、 上記の事例を見ると、寺田はすでにこの時から西欧近代科学を絶対視しておらず、その枠組みの中での業績競争には それほど関心がなかったのではないか、と思えるのである。

 (b) 水産講習所

 一方で、寺田は帰国直後から、長岡の推薦により深川越中島にある水産講習所の嘱託となり、週一回く らいの頻度で出かけて実験指導を行っていた。
 藤原咲平(注22)は、1914?15年頃に、寺田と一緒に水産講習所に勤務して いた。当時の寺田について、
「その頃すでにいろいろの思想の芽を育てておられた。皺や割れ目の略等間隔についてもすでに話さ れたことを記憶する。」(注23
 と述懐している。さらに、
「先生はまた自然物に凡そきまった規格があることに興味を持たれ、やはりそれの起こる原理に思いを はせておられた。」(注24
 とも述べている。晩年に追究した「ものの形」についての問題意識は、すでにこの当時から芽生えて いたのである。

 寺田は、鋭敏な観察眼で身の回りの現象を捉え、新しい研究の着想を得るのが得意だったが、水 産講習所においてもその本領は十分に発揮されたようである。寺田がのちに行った研究のいくつかは、 水産講習所での偶然の観察に端を発するものなのだ。
 寺田はある日、水産講習所で、平らな容器に少量のアルコールとアルミニウムの粉を入れ、それ を傾けると、アルミの粉がきれいな縞模様になることに気づいた。これは、アルコールが気化して液の 表面が冷やされ、そこに対流による周期的柱状渦が生成したために起こる現象である。寺田は、この経 験をふまえて、これよりおよそ10年後に周期的柱状渦の研究を始めることとなった(注25)。
 また中谷宇吉郎によると、
「先生が水産講習所へ実験の指導に行っておられた頃の話であるが、その実験室にあったありふれ た感応起電機を回してパチパチ長い火花を飛ばせながら、いわゆる稲妻型に折れ曲がるその火花の形を 飽かず眺めておられたことがあったそうである。そしてまず均質一様と考うべき空気の中を、なぜわざ わざあのように遠回りをして火花が飛ぶか、そして一見まったく不規則と思われる複雑きわまる火花の 形にある統計的の法則があるらしいということを不思議がられたそうである。」(注26
 これに基づく火花の形の研究は、後に物理学科や理研の寺田研究室で実行に移され、中谷自身も 一時期それを手伝った。

 水産講習所にまつわる以上の事例より、X線回折の研究に代表される開花期の華やかさの陰で、 寺田物理学の結実に向けての準備が着実になされていたことがうかがえる。

 (c) 病気療養に入る

 寺田は1916年11月に教授に昇任し、また航空学調査委員を経て1918年には航空研究所兼務となる。 しかし、寺田の歩みは順風満帆とはゆかなかった。1919年、やはり厄年に科学的意味はあるのか、42歳 の寺田はこの一年を通じて体調がすぐれず、年末には胃潰瘍のため吐血してしまう。そして結局、この 後約2年間にわたって大学を休職することになる。また、寺田はこの時期に「虚偽で非人間的な学校勤」 がいやになり大学辞職も考えるが、田丸の忠告により思いとどまる。
 病床の寺田は、これまでになく多くの随筆作品を発表した。吉村冬彦の筆名を使い始めたのもこ の頃である。そして、それと同時に、彼はそれまでに得た断片的な着想や疑問を整理して、次なる研究 の展開に思いを巡らせていた。
 ここで、前出の中谷の言葉をもう一度引用することにしよう。
「三年間かの病床及び療養の間に先生の頭の中で醗酵した色々の創意が、生のままの姿でいくら でも後から後からとわれわれの前に並べられた。それらの創意は、皆その後の数年の間に立派に育て上 げられて、後年の先生の華々しい研究生活の一翼をそれぞれなすようになった。」(「寺田先生の追憶」)
 三年間のブランクは、研究者にとって致命的なものにもなりかねない。しかし、寺田は逆に このブランクを味方に付け、この間に考案したアイデアにもとづいて研究を次なるステップへと進 め、大きな収穫を得ることになるのである。
 

結実期

 (a) 4つの研究室

 寺田は、1921年11月に大学に復帰すると、病床であたためた幾多のアイデアを現実のもの とすべく、再び研究に着手した。
 この時期の寺田について、石原純は次のように語っている。
「大学で学生を指導して種々の実験をやらせたり、又航空研究所や地震研究所や理化学研究所 で研究室を持つようになってからは、思う存分に自分の好む問題に浸ることができたので、ここに はっきりと寺田物理学の本領を発揮することができるようになったようである。」(注27
 まさに「結実期」と呼ぶにふさわしい充実した晩年であった。
 結実期の寺田物理学は、4つの研究室を舞台として展開した。まず1927年までは、 理学部物理学科に研究室が置かれ、ここで中谷宇吉郎・宮部直巳といった、のちに寺田物理学 の重鎮となる弟子たちが育てられた。さらに寺田は、以前から関与していた航研に加えて、 1924年より理研に、1926年より地震研に研究室を構えることとなった。そして1927年に理学部 勤務を免ぜられ、研究に専念することが認められると、寺田物理学の拠点は航研、理研、地震研 の三極へと移行し、これら3研究所で弟子の指導を行うという、寺田の晩年の研究体制が確立さ れた。
 それでは以下で、各研究室でどのような研究が行われたのかを見ることにしよう。まずは 理学部物理学科の研究室、次に1927年以降の拠点となった3研究所という順に見てゆこう (注28)。

 (b) 理学部物理学科 (1921-1927)

 寺田は1910年代にも物理学科で研究室を持っていたが、病気療養のため弟子がとぎれる形に なっていた。そこで、物理学科の寺田研究室は彼の病気療養後に新たにスタートしたと考えてよい だろう。
 1924年、寺田研究室は3人の学生を迎え入れた。その一人が中谷宇吉郎であった。中谷は大 学卒業後に3年間にわたって理研で寺田の助手を務めた後、留学を経て北大で雪の人工結晶の作製を 手がけることになる。また、寺田に倣っていくつかの随筆を残したことでも知られている。
 この年、霞ヶ浦の上空で「SS3号」という飛行船が原因不明の爆発を起こし、同年11月に、 海軍省から寺田のもとにその原因調査の依頼が寄せられた。大学生の中谷は、一年先輩の湯本清比古 とともにこの研究を担当するよう命ぜられた。彼らは、無線発信の際に出る小さな火花によって水素 に火がつき、飛行船の爆発事故が起こったことを実験的に解明し、海軍省の委員たちの前で立会い実 験を行った。当時はこれ以外にも飛行船の爆発が頻発し、深刻な問題となっていたので、飛行船のガ ス爆発防止の研究は、その後も理研で湯本の手によって続けられた。
 中谷が在籍していた頃の寺田研究室では、他に霜柱の研究や熱電気の研究が行われていた。 前者の霜柱は世界的にはかなり珍しい現象であり、日本的な題材といえる。しかし単なる日本趣味 で研究していたのではなく、これにより低温膠質物理学の重要な部分が明らかになると期待されてい た。後者の熱電気の研究というのは、電気ストーブのようなものを指すのではなく、電流の方向を反 対にするとそれまで熱せられていたところが逆に冷却される、というような可逆変化を扱うものであ り、寺田は、この研究により地磁気の根源をとらえることができると考えていた。熱電気の研究はの ちに理研で筒井俊正によって続けられ、新しい現象の発見につながった。
 こうした研究を指導しつつも、寺田は身近な現象を鋭く観察し、研究すべき新たな題材を模索 し続けていた。例えば、次のようなエピソードがある。寺田はある日、ボール紙製の菓子箱のふたに 砂を入れて弄んでいたところ、偶然に、砂の崩れ方がいろいろあることに気づいた。そしてこれがき っかけとなって、同様のモデル系を用いて断層の研究を行うことを思いつく。この研究は宮部直巳に よって1925年に始められ、のちに宮部は理研と地震研でこの研究を続けた。その成果は、寺田の多く の「断層や地殻の研究」につながっただけでなく、粉体の特殊な性質や割れ目の理論の研究にも発展 して行った。
 概して、物理学科の研究室で行われた研究のテーマは、飛行船爆発防止を除いては地球物理学 的な問題意識に端を発するものであった。ここでの研究は、のちに三つの研究所で行われたいくつか の主要な研究の基盤となった。

 (c) 航空研究所 (1921-1935)

 1921年7月の新官制により、航研は東大の中でも飛び抜けた規模の独立の研究所となった。それ に伴って航研の教授や助教授は「所員」とよばれるようになり、病気療養中の寺田も、それまでの「航 研兼務」という立場ではなくなり、所員に任ぜられた。
 療養からの復帰後に、航研物理部の寺田研究室で行われた研究の大部分は、「流体の運動」と いうキーワードで一括りにまとめることができる。中でも特に盛んだったのが、渦巻きの研究である。
 寺田の渦に関する論文のうち、もっとも古いものとして、1926年の航空研究所報告に同時に発 表された3報の欧文の論文がある。その中の一つは、格納庫中に置かれた気球の孔から漏れ出る水素 ガスの広がり方を調べたものである。飛行船爆破の原因調査に携わったことが、渦の研究に取り組む 契機の一つとなったことがうかがえる。またそれと同時に、上昇する空気の流れによる龍巻状の渦巻 きの生成についての研究論文も掲載されている。関東大震災では、東京を焦土と化した火災に伴って 大旋風が発生したが、寺田は震災予防調査会の仕事として、その大旋風の機構を調べた。この論文を 見るに、その調査が渦研究のもう一つのきっかけとなったと考えてよいだろう。
 寺田がつづいて1928年と1929年に航空研究所報告に発表した論文は、周期的柱状渦の生成に 関するものである。寺田の周期的柱状渦への関心は、前に述べたように、1915年頃の水産講習所での 偶然の観察が発端となっているようだ。
 寺田は、こうした渦の研究を単なる渦研究で終わらせず、さらに進んで「ものの形」との関係 を考えた。たとえば、ある論文では、波状雲のある種のものは対流による周期的柱状渦が原因で作ら れるらしいと述べらている。他のいくつかの論文では、熱対流と自然界の縞模様の関係について述べ てもいる。「ものの形のでき方」に対する探求心は、「結実期」を迎えた寺田物理学の主要な駆動力 となっていたのである。
 航研の寺田研究室では、この他に、噴水の形の研究、タンポポの種が空中を浮遊する機構の研 究などが行われていた。また流体の運動と直接かかわりのない研究としては、例えば田中信の金属膜 の研究を挙げることができる。1930年の航研彙報に掲載された田中の論文には、電気抵抗や熱電気的 性質に関する考察と並んで、金属膜の割れ目の写真が添付さ
れている。こうした弟子の研究を指導する際にも、やはり寺田は「ものの形のでき方」が気にな ってしかたなかったのだと思われる。
 このように、航研での寺田は、流体・渦・金属膜といった航空学に関連のある研究テーマを選 びつつ、同時に「ものの形」に関する独自の問題意識を追究していたのであった。

 (d) 理化学研究所 (1924-1935)

 寺田は1924年に、旧知の間柄である理研所長の大河内の誘いにより理化学研究所の研究員となった。 理研の設立は1917年であり、寺田はその前年の理研設立委員会に参加していたが、体調が思わしくなかった ため初期の理研には加わっていなかったのである。
 寺田物理学の晩年の三拠点のうち、理研では特に自由に研究を進めることができたようだ。当時の 理研は、「科学者の自由な楽園」として、他に例を見ないほどの研究の自由を保証していたのである (注29)。寺田は、落椿の実験をするために自分の研究室の窓の前に椿の木を 植えたり、様々な性質の粉で砂層の崩壊の研究をするために白玉粉や小豆粉や砂糖を大量に買い込んだ りと、他の研究所であればすぐには許しが出ないようなことを大胆にやってのけていた。「自由な楽園」 をじゅうぶんに満喫していたのだろう。
 寺田が弟子たちとともに行った研究のうち、ガス爆発の研究と熱電気の研究は物理学科時代から 引き継いだものであり、すでに述べた。理研ではその他、火花放電の形と構造・墨流し・割れ目・金平 糖の角のでき方など、「ものの形」に焦点を当てた研究が行われていた。
 例えば、その中の火花放電の形の研究は、次のような経緯で進んだ。寺田はあるとき、飛行船の 爆発原因を調べる実験の最中に、アルミ粉を分散させた塗料を塗った飛行船外壁用の布に、非常に長い 沿面放電(注30)が起こることがあるのに気づいた。その経路は、電極間を結 ぶ直線ではなく、同じ電圧をかけたときに空気中で飛ぶ火花の10倍以上の長さであった。ここで思い出 されたのが、遥か昔に水産講習所で観察した火花の形である。高電圧をかけたときに生じた雷放電も、電 極を結ぶ直線とは異なる経路をとっていた。寺田はこれら二つの現象を見比べて、火花放電の形と構造の 研究を発案した(注31)。これについては、助手の中谷が中心となって実験を 行い、多くの成果が得られることとなった。のちには火花の写真に基づいて屈曲の角度が統計的に解析 され、火花放電の経路は「空気の割れ目」と関係がある、という説が提唱されることになった。
 この他、芝亀吉とともに行った墨流しの研究は、墨汁の膠質的研究へと発展し、理研欧文報告など に発表された。平田森三らとともに行った表面エネルギーと割れ目の研究は、「動物の斑模様は、胎児の ある時期に生じた卵膜表面のひび割れに起因するものである」という仮説にまで発展し、動物学者との間 に論争を引き起こした。また金平糖の角の数とその成長機構の研究には、福島浩とともに統計物理学を駆 使して取り組んだ。
 「ものの形」とは異なる路線の研究としては、錯視の研究を挙げることができる。寺田が晩年に理 研で行った研究の一つは、「網目を通してぼんやりした像を見るとき、網の線と45度の方向に走る縞模様 が特に目立って見える」という現象に関するものであった。寺田は、大学卒業直後にもこのような研究を 手がけていたことがあるので、空白期間はあるものの、錯視研究は寺田のライフワークの一つといえよう。 共同研究者だった田幸彦太郎は、次のように述べている。
「先生が早くからOptical Illusionの問題をかくも多く取り上げて論じて居られるのも、平生、事 物の真相をもっとも的確に把握しようという真摯なる態度で居られる先生の、科学者として真に貴いご性 格の一つの現れではなかろうかと拝察する次第である。」

 (e) 地震研究所  (1926-1935)

 「寺田寅彦全集科学篇」(全6巻)には、欧文209編・和文58編の論文が収録されているが、 その半数は地震、測地、火山、気象など地球物理学に関連するものである。晩年の寺田がそれらの 研究の拠点としたのが、地震研究所である。
 1923年9月1日、関東大震災が発生。寺田は震災予防調査会の震災特別委員会委員になり、 被災地を巡視した。この経験から、火災に伴って発生した旋風の機構を調べ始めたのは前述のとおり である。震災後、教授会で地震学科と地震研究所の設立が提案され、寺田は地震研設立相談会に加わ った。1926年に地震研がスタートし、寺田も所員となった。
 地震研は、設立の経緯からもわかるように、実用指向で問題解決型の研究所である。寺田は、 科学を実験室内だけのものに終わらせず、市民生活に役立てようと努めた科学者でもあったのである。 そのことは、彼が火災論の講義に力を入れたことや、防災に関する数多くの随筆を残したことからも うかがい知ることができる。中谷によると、寺田はしばしば「一番大切なことは、役に立つことだよ」 と述べていたという。
 寺田物理学には、航研や理研を中心とした純理学的な研究と、地震研を中心とした実用重視の 研究が、双璧をなして存在していたと考えるべきだろう。
 しかし、以上のことは寺田が地震研究でひたすら実用性のみを追究していたということを意味 するものではない。寺田の論文の中には、地震と気圧勾配・地震と雷・地震と太陽活動・地震と漁獲 との関係・地震と発光現象というように、地震とほかの自然現象の関係を論じたものが数多くあるが、 これらはむしろ純理学的な興味に基づくものであろう。また、弟子の宮部が物理学科時代から行って いた砂層の崩壊に関する研究や、地震研彙報に発表されている、日本海海底の形態・日本海沿岸の島 列について・火山の形・土佐国南海岸の地形についてといった研究は、「ものの形」への関心が色濃 くうかがえるものである。
 寺田物理学と地球物理学の交わるところには、実用指向の研究と純理学的な研究が同居して いたのである。

 (f) そして次世代の花が開く

 以上のように、療養からの復帰後に寺田の研究テーマが形づくられるにあたっては、病床で 温めたアイデアという内的な要因と、海軍省の依頼や震災調査といった外的な要因が最初の駆動力 となった。さらに、研究を進める上での観察や偶発的な発見によって次々と新しいテーマが生み出 され、寺田物理学は「結実」を迎えた。1926年までに航研・理研・地震研の三極が形成され、大ま かに分類すると、航研では流体の運動に関する研究が、地震研では地球物理学の研究が行われた。 もう一つの拠点の理研は「科学者の自由な楽園」であり、他の2研究所の看板に収まりきらない研 究がここで存分に展開された。
 寺田物理学には、飛行船の爆発予防や防災を目的とした実用指向の研究と、それ以外の純理 学的な研究があるが、後者の根底に存在していたのが、「ものの形」に対する飽くなき探究心であ った。この関心に基づき、割れ目、縞模様、墨流し、火山の形などの独創的な研究が行われた。

 寺田が病床についたのは、理学部勤務を免ぜられてから8年後、1935年の9月であった。そ して同年大晦日の午後零時28分に、悪性腫瘍のため帰らぬ人となった。享年58歳であった。しかし、 その亡きあとも、寺田物理学の果実は弟子たちにしっかりと受け継がれた。弟子たちは、地震学・ 気象学・農業物理学・海洋学・火災物理学・熱力学・膠質物理学・統計物理学・音響学・航空学・ 科学史などの多様な分野に散らばり、寺田の教えを栄養としつつ、それぞれの花を見事に咲かせる こととなるのである。
 

寺田物理学の根底にあるもの

 これまでに、寺田の生涯を振り返りつつ、寺田物理学の形成と展開の過程を概観してきた。 次に問題となるのは、寺田物理学はどのような思想につき動かされてこのような歩みを刻んだのか、 ということである。そこで、彼の手による随筆を参考にしながら、広範囲にわたる研究の根底に横た わる科学観にメスを入れてみたい。

 (a) 寺田物理学が異色である理由

 すでに見たように、寺田はしばしば「一番大切なことは、役に立つことだよ」と述べ、市民 生活の向上に役立つ実用指向の研究に力を入れる一方で、「ものの形のでき方」の探究を中心とし た純理学的な研究をも同時並行で展開した。
 こうした寺田の理学的な研究のほとんどは、既成の「物理学」の枠に収まりきらないもの であった。寺田自身、次のように述べている。

 物理学は元来自然界における物理的現象を取り扱う学問であるが、そうかと言って、あら ゆる物理的現象がいつでも物理学者の研究の対象となるとは限らない。本来の意味では立派に 物理的現象と見るべき現象でも、時代によってまったく物理学の圏外におかれたかのように見 えることがありうるのである。(「物理学圏外の物理的現象」)

 また、「つぼみ期」の項で紹介したように、寺田の中でいつも生きてはたらいていたのは、 高等学校時代に田丸から教わった「物理そのもの」とでも言うべきものであり、それは大学で学ん だ「物理学」とは異なるものであった。
 つまり、寺田は「物理的現象の研究」と「物理学」とを別物と考えており、寺田が生涯にわ たって追究したのは、近代科学の文脈における「物理学」ではなく、物理学が本来立ち返るべきところの 「物理的現象の探究」だったのである。
 「開花期」の項で、ブラッグ父子にX線回折の研究で先を越されたと知ったときも、寺田は 超然と構えあまり気にとめなかったと書いたが、その理由も、上のように考えることにより容易に 想像できる。近代科学は、領域を細分化して研究者の守備範囲を区切り、各研究者に対象を深く掘 り下げさせることにより発展するという特徴を持っている。この枠組みのもとでは、個々の研究者 は多くの場合、狭い専門領域の中で業績競争に勝つことを目標として研究を進める。しかし寺田に とっては、近代科学の枠組みなどはじめから眼中になかったのだから、自分の優先権はさほど重要 ではないのである。むしろ彼にとって大切なことは、誰の手によるかにかかわらず「未知の物理現 象が解明される」ということなのであり、このような価値観に従えばこそ、ライバルであったブラ ッグ父子の仕事を「多くの人は一種の『美』に酔わされぬわけには行かぬことと思う」と賞賛し得 たのだろう。

 (b) 寺田の科学観

 以上に述べたように、寺田の研究に対する姿勢は、分野内の業績競争に勝つことを目標として 研究を行っていた同時代の多くの科学者たちとは異なるものであった。それでは、結局のところ、 寺田は何を目標として「物理的現象の探究」に生涯を捧げたのだろうか。その答えの鍵となるのは、 次の文章である。

 今のところ私は、すべての世人が科学的系統の真美を理解して、そこに人生究極の帰趣を認め なければならないのだと信ずるほどに徹底した科学者になり得ない不幸な懐疑者である。それで時 には人並みに花を見て喜び月に対しては歌う。しかしそうしている間にどうかすると突然な不安を 感じる。それは花や月その他いっさいの具象世界のあまりに取り止めどころのないたよりなさであ る。どこを捕まえるようもない泡沫の海におぼれんとするときに私の手に触れるものが理学の論理 的系統である。絶対安住の世界が得られないまでも、せめて相対的の確かさを科学の世界に求めた い。(「相対性原理側面観」)
 
 自らをとりまくこの「世界」とは、なぜかくあるのか。このような問いに答えようとすると、 一つの問いが次の問いを生み、「泡沫の海におぼれ」る状態に陥ってしまう。そこで一筋の光明を与 えるのが、「理学の論理的系統」である。これは、どんな問いにも答えることのできる万能のツール ではないが、「相対的のたしかさ」をもって一つの世界像を描くことができる。上の記述から推測す るに、寺田は科学という活動の本質を、「この世界とはいったい何であるのか」という根源的な問い に迫るものとして捉え、自らその答えを探して日夜研究に没頭していたのだろう。
 科学をこのような本来的な意味で捉えれば、「目の前に見えているものは本当に真実だろうか?」、 「目の前に見えているものはなぜあのような形をしているのだろうか?」という問いが生じるのは、 ごく自然なことである。これらの問いが、錯視研究並びに「ものの形のでき方」の研究という、寺 田物理学におけるライフワークを生み出す原動力となったと考えられる。
 さらに寺田は、「理学の論理的系統」をより広い範囲にわたって適用することを考える。

 要するに科学の基礎には広い意味における「物の見方と考え方」のいろいろな抽象的な典型が 控えている。これは科学的対象以外のものに対しても適用されうるものであり、また実際にも使用さ れているものである。それを科学者がわれわれに思い出させることは決して珍しくも不思議でもない のである。もとよりそういう見方や考え方が唯一のものであるというわけでは決してないのであるが、 そういう見方考え方が有益である場合はまた非常に多くてしかも一般世人がそれを見逃していること もはなはだ多いように思われる。それで、そういういろいろなものの見方に慣れた科学者が人間界の 現象に対してそういう見方から得られるいろいろな可能性を指摘してそれに無関心な世人の注意を促 すということは、科学者としてふさわしいことであって、そうしてむしろ科学者にしてはじめて最も 有効に行い得らるる奉公の道ではないかとも考えられるのである。(「科学者と文学」)

 こうして、寺田の遺した膨大な量の随筆が寺田物理学とどのような位置関係にあるのかも明ら かになる。寺田は、科学的な「物の見方と考え方」を「人間界の現象」に対して適用してその成果を 世人に語ることを、科学者ならではの重要な責務として捉えていたようである。
 このように寺田は、科学を切り口として世界のあり方を認識し、その成果を語ることに生涯を 賭けた人物であったが、彼はけっして科学を絶対視していたわけではなかった。

 最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時と して陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。 科学は孔子のいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部にすぎない。しかるに現在の科学の国土は まだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋でも持っていない。芭蕉や広重の世界にも 手を出す手がかりを持っていない。そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。 そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思い上がるのは、その人が科学者であるには 妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。これもわかりきったこと のようであってしばしば忘れられがちなことであり、そうして忘れてならないことの一つであろうと思わ れる。(「科学者とあたま」)

 科学を切り口として世界認識を行うからには、科学の限界についてもよく把握しておかね ばならない。同時に、広い視野を持ち、哲学や芸術など、世界を認識するための科学以外の方法 についても心を閉ざさぬように努めなくてはならないのである。
 
  (c) 現代の科学者へのメッセージ

 以上のように、寺田寅彦という科学者は、科学の本来の目的に立ち返り、科学によって 世界のあり方を記述し世界像を描こうとした「認識の人」であった。彼は、その目標に基づいて 多様な研究テーマを設定し、数多くの収穫をおさめた。それと同時に、科学的な物の見方・考え 方を広く人間界の現象にも適用し、随筆の形でその成果を世人に語ることにも熱心であった。し かし彼は科学を絶対視していたわけではなく、科学の限界を把握し他の学問体系にも心を開いて いた。
 一方、同時代の科学者の大部分は、近代科学の枠組みに無批判に従うばかりであり、 狭い学問分野の中で業績を上げることに熱中していた。寺田物理学がユニークに見えるのは、 このように他の科学者たちとは拠って立つ基盤自体が異なっていたためであると思われる。
 寺田が没してから60年以上が経過し、言うまでもなくその間に膨大な量の新しい科学 的知識が蓄積された。しかし、それによって専門の細分化がさらに進み、現代の科学者にと っては、寺田の時代以上に、自分は何のために研究を行っているのかという目標が見えにく くなっているように思われる。
 次の文章は、寺田が同時代の科学者たちの状況をふまえて書いたものであるが、その まま現代の科学者、とくにこれから科学者として一人立ちしようとしている若い人々への メッセージとなっている(注32)。そこで、これを紹介して本稿を 終わりたい。

 問題は畢竟科学とは何ぞや、精密科学とは何ぞやということに帰着する。しかしこの 問題は明らかに科学の問題ではなく従って科学者自身だけでは容易に答えられない問題である。 私も今ここでこの難しい問題の考察を試みる考えはないのであるが、ただ現在の精密科学の 学生たちの多くが、この問題にあまりに甚だしく無関心であることは事実である。彼らは高 等学校から大学へ来て各自専門の科学の部門の豊富な課程に食傷するほどの教育を受けるの であるが、いまだかつてどこでも科学とかなんとかいう事についての考察の端緒をも授けられ ないのである。その結果はどうであるか。たとえば物理学の課程を立派に修得し、さらに大学 院に入り五年間の研究の成果によって学位を得た後においても、何が物理学であるかについて 夢想だもしないということが可能となるわけである。もっともこれはその人が立派な一人前の 物理学者となるためには少しも妨げとはならないことも事実である。それは日本人とはいかな るものかを少しも考えてみることなしに立派な日本人であり得ると同じ事である。それでこの 学者が自分の題目だけを追究している間は少しの不都合も起こらないのであるが、一度こうい う学者たちが寄り合って、互いに科学というものの本質や目的や範囲に関する各自の考えを開 陳し合ってみたら、その考えがいかに区々なものであるかを発見して驚くことであろうと思う。 甲が最も科学的と思うことが乙には工業的に思われたり、乙がもっとも科学的と考えることが 甲には最も非科学的な遊戯と思われたりするという意外な事実に気がつくであろう。(「ルクレ チウスと科学」)

 現代においても、我々科学に携わる者は、ともすると「科学とは何か」と自問すること を怠りがちである。前に述べたように、近代科学は、領域を細分化して一人一人の持ち場を限 定し、各研究者が特定の対象を深く追究できるようにすることにより、知識体系を太らせてき たという面があり、この図式の上では、科学者はとりたてて科学の意味を問う必要がなかったと 言える。しかし、現在、そうした近代科学の発展メカニズム自体が転機を迎えている。
 昨今の人類が環境問題という地球規模の課題に直面したため、科学者集団は、既存の学 問領域の枠を超えた連携により問題解決への道を探ることを、社会の側から要請されるように なっている。また、「複雑系の科学」の隆盛に見られるように、これまでの科学が扱えなかった ような事象を説明する新しいパラダイムを作り上げようという気運が科学者の間で高まっている。 このような流れを受けて、専門領域の枠内に安住して業績競争をしていれば科学者として事足り るという状況は、次第に過去のものになるのではないだろうか。
 当然ながら、科学の捉え方や研究のス タイルは十人十色であって良い。しかし、次のようなタイプの科学者の存在 が今後これまで以上に重要になってくることは確かであろう。それは、既存の科学の枠組みを無批判に 受け入れるのでなく、「科学とは何か」を真摯に自問し科学の限界をも捉えた上で、科学のあり方を再構築してゆく事のできる科学者である。また、科学的な世界の見方やものの考え方を、わかり やすくかつ正確な形で社会に向けて発信することのできる科学者である。寺田の没後60年以上を 経た今、我々の文明に寺田的な知性が待望されているのである。寺田寅彦の知の世界を振り返ると いう本稿の試みが、科学の現在を照射し未来図を描くための一つの材料となれば幸いである。
 

注1 湯本清比古「寺田先生の瓦斯爆発の研究についての思出」『思想  寺田寅彦追悼号』(岩波書店、1936)pp.136-140。
注2 近代日本の科学技術の性格については、例えば、佐々木力『科学論 入門』(岩波新書、1996)の第一章に書かれている。
注3 寺田の落椿の研究については、高田誠二『科学方法論序説』 (朝倉書店、1988)の第5章に詳細な解説がある。
注4 石原純「寺田物理学の特質」『思想 寺田寅彦追悼号』 (岩波書店、1936)pp.23-35。
注5 宇田道隆「海の物理学の父寺田寅彦先生の思い出」『思想  寺田寅彦追悼号』(岩波書店、1936)pp.61-67。
注6 寺田の父母や妻子にまつわる話については、小林惟司『寺田 寅彦の生涯』(東京図書、1995)に詳しく紹介されている。
注7 東大の歴史をさかのぼってみると、この大学は、京都帝国大学 の設立に伴って、寺田入学の2年前(1897)に名称を帝国大学から東京帝国大学へと改めたので あった。当時の組織は、法科大学、医科大学、工科大学、文科大学、理科大学、農科大学、お よび大学院からなっていた。
注8 藤原咲平「寺田先生を悼む」『思想 寺田寅彦追悼号』(岩波 書店、1936)pp.51-60。
注9 地表で観測される磁場は、周期約1秒ないし数分の比較的規則 正しい変化をすることがあり、この現象のことを地磁気脈動という。
注10 日本古来の青銅鏡の一つで、水銀が塗られた鏡面を見る限り ふつうの鏡であるが、そこに強い光を当てて反射光を壁などに投影すると、鏡の裏面に鋳造され ている絵や文字が写し出されるというもの。
注11 千里眼事件については、一柳廣孝『<こっくりさん>と<千里眼>』 (講談社選書メチエ、1994)に詳しい。千里眼事件は、実験担当者間の仲違いや被験者の死により、 ついぞ真相が解明されることはなかった。
注12 富塚清『航研機』(三樹書房、1996)p.83によれば、山川は、そ の後1919年の9月に初代所長の横田成年に代わって航研の所長事務取扱に就任し、翌1920年の9月ま で、およそ1年間にわたってその職と大学総長を兼任した。
注13 藤原咲平「寺田先生を悼む」『思想 寺田寅彦追悼号』(岩波書店、 1936)pp.51-60。
注14 磁性体を磁化すると、それが変形する現象。磁気ひずみ、あるいは ジュール効果ともいう。
注15 小林惟司『寺田寅彦の生涯』(東京図書、1995)pp.345-352による と、努力型ですぐカミナリを落とす長岡と、天才肌で柔和な寺田は、後年何かにつけて意見が合わな かったという。長岡が寺田を「あれは学者じゃなくて小説家だよ」と言ったとか、寺田が長岡のことを 「先生は頭が悪いんだ」と言ったとかいう話が残  っている。そのためか、寺田の弟子たちの中にも 反長岡の空気があったようである。
注16 ドイツ語のSeichesから来ており、湖水や港湾のゆったりとした固 有振動のことをさす。単に「セイシュ」と記述されることもある。
注17 当時の日本における科学研究の状況については、杉山滋郎『日本の 近代科学史』(朝倉書店、1994)pp.68-70に詳しい。
注18 水や空気のむらが非常に鮮明に見えるように工夫された撮影法のこ と。シュリーレン法は、これ以前もマッハの研究により海外ではよく知られていたが、寺田と大河内の 研究を機に日本でも頻繁に用いられるようになった。
注19 藤原嗣治「大河内正敏 日本で最初の科学総合プロデューサー」 『日本科学者伝』(小学館、1996年)pp.175-181によると、大河内はその後1946年に、公職追放 により理研の所長を辞任した。その後は、理研関連会社が新潟県柏崎市を拠点としていた縁で知り 合った田中角栄をバックアップした。田中が新会社を設立して財を蓄えることができたのは、大河 内の庇護があってこそであった。
注20 田幸彦太郎「生理光学的現象」『思想 寺田寅彦追悼号』 (岩波書店、1936)pp.116-120。
注21 西川正治「ラウエ斑点」『思想 寺田寅彦追悼号』(岩波書店、 1936)pp.103-106。
注22 のちに第五代中央気象台長、1941-47在任。
注23 藤原咲平「寺田先生を悼む」『思想 寺田寅彦追悼号』 (岩波書店、1936)pp.51-60。
注24 同上。
注25 玉野光男「渦をめぐる寺田先生の思い出」『思想 寺田寅彦追 悼号』(岩波書店、1936)pp.92-98。
注26 中谷宇吉郎「指導者としての寺田先生の半面」『思想 寺田寅彦 追悼号』(岩波書店、1936)pp.67-72。
注27 石原純「寺田物理学の特質」『思想 寺田寅彦追悼号』 (岩波書店、1936)pp.23-35。
注28 結実期の寺田の研究については、特記していない箇所に ついては、中谷宇吉郎「寺田先生の追憶」や、『思想 寺田寅彦追悼号』(岩波書店、1936) の中の田中信、玉野光男、芝亀吉、田幸彦太郎、筒井俊正、平田森三、福島浩、及び湯本 清比古の文章を参考にした。
注29 高田誠二『科学方法論序説』(朝倉書店、1988)pp.142。
注30 気体中におかれた放電電極間に絶縁物の固体面または液体 面が存在するとき、あるいは液体中の電極間に固体面が存在するとき、それらの境界面に沿っ て起こる放電をいう。
注31 木下是雄「応用物理学者としての寺田寅彦」『科学』vol.66 (1996) pp.694-696
注32 この他にも、寺田の随筆の中には、現代の科学研究者が 心に留めておくべき言葉がたくさんある。ここではそのすべてを紹介することはできないが、 今後、それらの言葉を何らかの形で紹介し、それを題材として科学や科学者のあり方を模索 してゆきたいと考えている。

*注の中の物理学的な事項については、『改訂版・物理学辞典』(培風館、1992)を参照 した。
*注の中の日本近代科学の黎明期の事項については、主に、杉山滋郎『日本の近代科学史』 (朝倉書店、1994)を参考にした。
*本文中では、『思想 寺田寅彦追悼号』(岩波書店、1936)からの引用はすべて現代 仮名遣いに改めた。
*寺田寅彦の随筆は、『寺田寅彦随筆集 第一巻?第五巻』(岩波文庫、1947-48) を参照した。
*中谷宇吉郎の随筆は、『中谷宇吉郎随筆集』(岩波文庫、1988)を参照した。
*本稿作製にあたっては、上に挙げたものの他、次の文献も参考にした。
 『科学』vol.66 No.10 特集:寺田寅彦と現代  (1996)
 常石敬一「寺田寅彦」『日本科学者伝』(小学館、1996年)pp.169-174
 

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隅蔵 康一  E-mail: ksumi@ip.rcast.u-tokyo.ac.jp